文豪 幸田露伴 人物像

露伴は、虫局牛(かぎゆう)や脱天子等、多数の 雅号を持っていたが、弱冠20歳、文学を志した熱 き思いと厳しい突貫道中を忘れぬようペンネーム 「露伴」を生涯大切にしたと言われている。
注)第1回文化勲章受章者(昭和12年/1937) 長岡半太郎、本多光太郎、木村栄、佐佐木信綱、 幸田露伴、岡田三郎助、竹内栖鳳、藤島武二、 横山大観
幸田露伴 突貫紀行 道中
- 1出生
- 慶応3年(1867)江戸下谷三枚橋、現在のアメ横商店街のど真ん中に、江戸城表お坊主を勤めた下級武士の4男、成行(しげゆき)として生まれました。翌年に徳川幕府が崩壊、収入の道を絶たれ転々とし、中学を中途退学、図書館等でもっぱら独学の後、明治18年(1885)電信技手として北海道へ赴任しました。
- 2立志
- 余市で2年間を辛抱した成行は、明治20年(1887 年)8月、いたたまれぬ感情を押さえ切れずに文学を志し、夜逃げ同様の上京を決行しました。東京まで1000キロを超す旅、銭も少なく、20歳になったばかりの青年にとってこの道中は、まさに突貫そのものでした。
- 3突貫紀行
- 右図参照

- 4限界
- 明治20年9月28日、いよいよ旅の大詰め、最悪の体 調の中、福島から郡山まで徹夜を覚悟、通りかかった二本松は祭りの最中で、口にしたのは奥州街道峠 茶屋「阿部川屋」の餅でした。体力・気力の限界で 詠んだ句「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」は 「露伴」の雅号の由来となりました。 ー露伴日記 原作抜粋ー
- 5希望
- 翌29日、上野までの運賃1円50銭を残し、やっとの 思いで郡山駅に辿り着いた露伴は、熱と空腹をはねのける大きな希望を抱きながら8時発の列車に飛び乗りました。
ペンネーム「露伴」誕生のゆかりの地・にほんまつ
